昭和56年5月18日 月次祭
末永静行
(途中から)
あーいう時に、お書きになったと思われる額がかかっております、その額に「道は子ならず」とございます。道は一人でには、まあ、開けないと言う意味でしょう、道は子ならず、そんなら、道は一生懸命に努力をしなければ開けないと言う事であろうか、勿論、努力はいるでしょうけれども、その努力の焦点が間違いますと、信心とは相反する我情になり、我欲になります。我情になり、我欲になったんでは、よしそれが道が開けや、道が成功したに致してもおかげにはなりません、ね、いわば、子にも孫にも伝わっていくというものになりません。どういうところに、焦点をおいて努力をするか、精進をするかと言う事でございます。
信心によるおかげ、信心によるお徳というのは、ね、神様のお心を分からせてもらい、神様の心に添い奉る、その神様の心に添い奉ろうという発心、そこからが真の信心であります、神様からおかげをもらわねばならんという時にはまだ信心じゃないのです、ね、神様のお心に沿い奉る生き方をさせて頂こうというところからが金光今日の信心は真の信心と言う事になります。
神様のお心に沿い奉ろうと本気で思う時に喜びが湧いてくるというのか、与えられるのでしょうね、あれは。私が十一、二歳の時であったと、まあ、皆さんも十分何回も聞いておられるから御承知でしょうけれども、先代の荒巻先生、私の親先生が学院から帰られた当時に現在の三井教会の総代をしておられます岸新太郎という先生、これは校長先生で、この頃、先年止められましたけれども、現在総代をなさっておられます、まあ、二人も青年の時です、私はまだ十一の子供の時です、その当時はマルショウといわずに子供会と言いよった、で、まあ、日曜にやらせて頂いて丁度休みの、まあ、皆おもてで休んでおる時間に表の玄関のところで、学院から帰られたばかりの、まだ元気一杯の親先生と、それからその岸先生が話をしておられます、その話を聞くともなしにそこにたって聞いておりましたら、熱心にその岸先生が、親先生に向かって、先生、当時は若先生ですね、若先生三井教会からね、もうそげん沢山な信者ことはいりません、もう一人でよいから真の信者を作って下さいというておられるのが私の耳に入ってきたんです、たくさんな事はいらん、真の信者が一人おればいい、その真の信者を一人作って下さいというておられるのが私の耳に入った時に、私がね、その真の一人に信者になろうと私が思ったんです、もう思おうとして思うものじゃない、期せずして、それこそ、まあ、今から申しますと感動でしょうかね、もうおかしいぐらいに涙がこぼれるんです、もうおかしいからそこの横がみかん畑でしたから、みかん畑の中に入って泣いた事がございましたから、あの涙が、あの感動はどこからどういう分けだったのかと言う事を、もう後々になって分からせて頂いたことですけれども、小さい私の子供の心の中に、ね、三井教会から一人でいい、真の信者を作ってください、本当の信者を一人でもいいから作ってくださいと、というその声に私が感動して、それに答えるように私の心がその本当の信者というのに私がなろうとこう思うた。そしたら感動が湧いてきた、どういう訳でしょう。
今日皆さんに聞いて頂いとる、いわば、道は子ならず、いや、それは一生懸命人間が精進、一生懸命努力すれば人並み以上に働けば、まあ、いろんな店が開ける事実があるじゃないか、なるほど開ける、開けるけれども、その道は、ね、もう必ず親の代、子の代、孫の代というように伝わっていく道ではない、ね、お父さんは大変に努力をした、精進された、そして人物でもあった、例えば、商売であるなら商売もお上手であった、ね、なるほど、大きな財産を作り、道も開けてきたけれども、それが子に孫に伝わらないというのは、ね、いうならば自然に、まあ、反するとでも申しましょうか、神様の心を対して繁盛したものではないのです。
だから、道は子ならず、なら精進をしなければならない、まあ、その精進はどういう精進かと、それは天地の心を心としく、天地の心を心と分からせてもろうて、その心に添うて行く生き方をさせて頂いて開ける道でなからなければならない、ね、そういう信心になろうと言う事は私は真の信心になろうと言う事であり、その決心がついた時に、そういう思いが心の中に頂けた時に神様が私はお喜び下さる、感動まします、そして、どこから湧いてくるか分からない感動が、まあ、それこそ子供心に見せるような感動を覚えた、ね。
その喜びを私は妙賀だと思います。信心をしておかげを頂いて嬉しいなあ、有り難いないというのは妙賀じゃない、神様の心に触れて、神様のお心にお応え申し上げるような心がここに育っきた時に、それが一つの発心ともなり、決心ともなった時に、天地に通う、その天地の感動が私の心に起こってきたその喜びを私は妙賀だと思う。
今度の新聞の一番上に「妙賀栄える富尊繁盛」とのっております、感じるかおっとどっこい、意味が分からないなと、妙賀というのは喜びの妙と書いてある、ふき繁盛のふきは富に尊いと書いてある、どう言う事か分からんだろうけれども、皆さんも分からん方があるかも知れませんから、いわば、今日私が聞いて頂いておる、妙がというのはお野菜の事、ふきも野菜の事ですけれども、妙がとふきとかいうのは非常に繁盛、根が張っていくお野菜だそうです、それを文字って頂いた御教えなんですねこれは、喜びの妙、その喜びの妙が心から湧いてくる、そういう信心にならせて頂く時にもう必ず富尊繁盛は約束されるです、これは、まあ、私がそれを実験実証してきておりますから言えれるんです、信心のいわゆる喜び。
今、中村先生の、昨日でしたか、竹内先生じゃない、あれは佐田先生、隣同士ですから、隣同士、まあ、こう、お話に行きます、中村先生のお部屋に参りますと、親先生の書かれた妙賀栄える富尊繁盛という軸がかかっております。それを見るたびにおかげを頂くと言う意味の事を昨日の婦人会で佐田先生が話しておりましたが、ね、打ち取るは難しいされど妙賀かなと、この彦山という絵馬二十三年目に必ず咲くといわれる赤い妙賀の花なんです、それを、ある有名な画家の人が書いたものを私に送ってくださった、そこで、私がそれにさんを書いておる、そのさんが、打ち取るは難し、されど妙賀かなと、改まると言う事、その自分の心の中にこれは切ってのぞこなければと思うこれがあってはおかげにならんと思うものを打ち取る事は難しいけれども、妙賀を頂きたいという心はそれにもましてのものだという意味なんです、ね。
信心が日々の改まりが第一、信心は本心の玉を研くもの、ね、いわゆる、本心の玉が研かれていくと言う事、為にはまず私共が、ね、いうならば、垢を切って落とさなければならない、改まらんなりに、いうなら、赤がついたまま上からこうやって磨いてもそれは垢光りであります。ね、難しいけれども、今までのこれではおかげが受けられんというものを打ち取る、ね、その妙賀得られる、妙賀にひとたび触れるとです、その妙賀が与えられたい頂きたい、ね、たくさんなお供えをする、こげんほんとお供えをせなんじゃろうかとこう、ところがたくさんお供えをすればするほどに、妙賀が、喜びの妙が湧いてくる、なら、それは本当なものです、ね、お供えをして何かこう、( )いつまでん残るならそれはほんなもんじゃない、もうたくさん、今まではこんな出来るはずはないと思いよったお供えが出来るようになる、ね、そこに与えられるところの喜びが妙賀である。
打ち取るは難しい、されど妙賀かな、妙賀に触れたい、ね、その妙賀をもってするならば、いわゆる、富尊繁盛のおかげにならないはずがない、繋がらないはずがない、ね、それは、神様のお心に沿う事だからである。
今朝から、麻生さんが朝のお参りをされてから、二、三日前お夢を頂いておって、ころっと忘れてしもうておった、それを確かに有り難いお夢だったからと思うていろいろ考えたけれども忘れてしもうて分からんけれども、はっきり残っておるのは大きな鯛が夢の中に現れた、お魚の鯛、そすと、次には水の心というだけが印象に残っておるというお夢であった、もうだからその二つが残っとりゃもうよかよというて、まあ、話した事でございますが、ね、鯛の、鯛はおかげ、最高のおかげと仰るが、仰いますから誰でもその最高のおかげを頂きたい、為には一つ本気で水の心になれよという御理解だろうねというてお話を致しました。
地真水心という御理解を頂いた事があります、地の真、水の心、地真水心である、ね、真、真いうけれども、私共がここで土の心とも申します、ね、これは黙って受けて自分の心の根肥やしともしていこうという信心なんです。今日はあそこへ珍しい、あれは焼酎でしょうか、ちょっとあれが違うんですけど、与作という焼酎か酒かたくさんお供えがあっております、与作、与作という歌がありましょうが、あの与作です。与え作るとかいてある、それをこれにもそん難しいようとうではなして、数字の五という字が書いてあって中に引くという字がこう書いてある、マイナスというかね、五を書いて、横に一を書く、そすと与えるというよという字になるでしょう、与えると言う事は、いわゆる、打ち取るは難しいされであります、与える事によって、五です、数字の五が引かれると言う事です、ね、五が引かれると言う事はまあ金光教的にいうならばめぐりが取れていくと言う事でしょう、めぐりの取り払いを、ね、難儀そのものも、いわば、有り難く受けると言う事はめぐりのお取り払いだから有り難く受けるのである、ね、有り難く受ける事によって力ができる。
先だって、私はお夢を頂いたんですけれども、豊に肥えを太っておる人のコンテストが、コンテストちいうかね、まあ、あっておる訳です。それに私がもう勝ち進んで行ってるわけです、ところが私の倍ぐらい大きいとがおりまりますもん、はぁーこれには負くるかなと私が思いよったら、審査員がその人の乳がこうしとるとばこうこうやって扱いよるもん、(笑い)これは駄目ち言いよる、ぶだぶだじゃけん、で私なつの方をめくってこう、あの、硬い、ね、やはり、今度は世界のコンテストに、まあ、臨まれるというところで目が覚めた、まあ、いうなら日本一に豊な心、強い心とでも申しましょうか、ね、豊な心を頂かずしては私は豊なおかげに恵まれない、そんならばその豊な心でもなかった小さい私の心が段々豊になってきたのはどう言うことかというと地真水心だと思うです。ね。
地の心を尊んできた、黙って受けていく、黙って治めるという生き方を身につけてきた、どう言う事が起こってきても皆さんにもお取次ぎをさせて頂いて、もうどうにもしようがない右にしたら良いでしょうか、左に下が良いでしょうかという時に、私は必ず決まって言う事は成り行きに任せたらよかろうとこういうのです、ね、あれは水の心なんです、ね、水の心というのは器に従うと同時に流れて、もうしたへ下へと流れに流れていく、どういう障害がありましても障害を、いわば、こう迂回(うかい)する、回ってからでも流れていく、それが一つの力ともなると水圧という力にもなる、電気を起こすと言う事も出来る、すさまじい働きになる、ね。
私の数十年の信心はこの地真水心だと思うんです、ね、ただそれを本気でお互いが極めようとする心が合楽理念には、いうなら、いつも聞いて頂くように見易う説いてあるわけなんであります。道は子ならず、道はひとりでには開けない、なら、精進努力しなければと、ね。
私は先だって高芝さんのところの娘婿の隈井さんというところのお店が見事に出来ました。今日はそれの開店のパーティーでここの先生方が二、三人お呼ばれしていきましたが、大変な盛大な事であったそうですが、私共はその前にお神様にお礼を申し上げてくれというので私と家内とそれから繁雄さんと三人でまいりました。もう本当に信心はまあ年に何回かしか参ってこんが、その両親である高柴さん夫婦が熱心に信心いたしますからおかげを頂いておりますが、これは信心を抜きにしてもこの人ならば成功をすると思いましたね、うん、心が美しい行き届く、親切、もうこれならお客さんに信用されんはずはないって、ね、私はその時に申しました、例えばなら合楽でも正義先生やら久留米の佐田さんあたりのような方はもう信心はせんでもあれなら必ず成功するです、おかげ頂くです、やり方が忠実ですもん、まじめです、人に愛されるものを持ってるです、ね、けれどもそれをです、なら子に孫に伝えていくと言う事は出来んです。繁盛しておる人も儲け出す人は違いますどこか、ね、けれども信心によって、いわゆる、道は子ならずという信心によって道を開く繁盛のおかげを頂いて行くと言う事のためにはです、それに、いうならば、地真水心の心とでも申しましょうか、ね、改まりに改まり、磨きに磨いて、精進するというのならそこんところの精進をしながら道が開けて行くのです。
で、私が隈井さんに申した事でしたけれども、あんたの生き方でいきゃもう必ず店は繁盛するだろうけれども、その繁盛がなら子供にも孫にも伝わると言う事にはならない、信心とはその子にも孫にも伝えて行く事のできれる、いよいよ家繁盛子孫繁盛に繋がって行くために親が信心をしておかなければいけない、同じ精進の精進でも精進の焦点が違う、自分の精進努力で開けたのではなくて、神様のおかげで開けるというもの。
そこに、そして精進というのはなら今日の御理解でいうなら地真水心というか、ね、またはいうならば与えて与えて止まない心、そこにめぐりのお取り払いは頂けれる、力は頂けれる、心はいよいよ豊になり、ね、力もついてくる、ね、豊な心が頂かれる、そこには必ず豊なおかげにも恵まれると言う事になります。
本気で、例えば、本気ですぐ決まった心でもないのですけれども、まあ、ある日、突然です、私の子供心の中に、ね、三井教会からたくさんな事はいらん、一人でいいから本当の信者を作ってくれといっておるその岸先生の言葉に私が、まあ、感をした、感じた。そして、子供心にその本当の信者に私がなろうとこう思うた、それはやっぱり本当のものであっただろう、その証拠にその後に湧いてきておる感動、そういう感動、その感動こそが妙賀であると、この妙賀は必ず富尊繁盛に繋がる妙賀である、喜びの妙である、それは神様が喜んでくださる、その喜びはこちらに照り返ってくる喜びを妙賀というのだと、妙賀栄える富尊繁盛というのである、ね。
だから、神様が喜んでくださるような心の使い方の出来れる人にならせて頂くことのために、ね、お互い信心をしておるというても良いのです、それは、中々、喜びの妙に触れると言う事は至難のようですけれども、ね、その喜びを頂けていく事が楽しみになってくると、ね、少々きつい修行でもおかげを頂くことになります、ね、その修行でも、ね、難しいけれども、ね、頂く喜びのほうが大きいのですから、それがあえて改まっていく事も出来る、修行が出来ます。
昨日の御理解だったでしょうか、おかげであの古川、今福大に入院させて頂いておりますが、昨日、美登里会の方達がお見舞いに行って下さった、そしたらもう顔、顔色も良くなって、少しおかげで肥えてもおるし、ね、そして、まあ、大変気分も楽になったいうて申しましたそうですが、昨日の朝、頂きました御理解の中にです、この頃だいたい胃だけじゃったのが腎臓も悪うなっとるというように聞きましたもんですから、その事を神様にお届けさせてもらっておりました、そしたら、●スイカをこう切って、それを小さいスプーンで、ほうくで指してこう下を向けておるところを頂いた、これじゃ、こうスイカが下へ落ちやせんだろうかというような感じなところでした、だから、こう持ち返る、ちょっと持ち返るとそのスイカを頂くことができる。ははー、腎臓にはスイカが聞くと言う事じゃから、と思うたら、その前に特効薬と言う事を頂いた、まあ、腎臓の特効薬という意味だろうかと思うたら、ね。
とにかくもう何ヶ月間というて寝とりますから、ずいぶん苦しい事であろうと思いますけれども、その苦しい事がスイカの行にも匹敵する行だと分からせてもろうて、ね、いわば、きついですけれども結構な修行をさせて頂いて有り難いという受け方をすればそれはおかげの特効薬だぞという御理解を頂いたんです、ね。
きついとか苦しいとか不平不足をいうところにはおかげはない、ね、不平不足をいわねばおられないような事の中にもです、それを、ね、いうならば修行として受けていく、土の心、地真水心で受けていく、ね、これがおかげの特効薬、大きな鯛が頂けれる、約束される、そこんところを徹底していく生き方をいよいよ身に付けて行かなければ、おかげの特効薬、ね、それはスイカで頂くと言う事、ね。
道はひとりでに開けない、そんならば一生懸命努力をしなきゃいけない、一生懸命努力をすれば、いうなら、道は開けれる。ところがただ一生懸命に焦点なし、本当の焦点を間違えての努力であると、開けてもそれは子にも孫にも伝わるというほどしのものにはならない、信心をさせて頂いておかげを頂くのは、それこそ、祝いめでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂るというのではないか、金光大神はその家繁盛子孫繁盛の道を教えると教えられるその道とは私共がどこまでも、いわゆる、地の心、水の心をもって、いわゆる、合楽理念に基づく生き方をもって、そこに焦点ば置いて精進していくという生き方を身に付けていかなきゃならない。それは、いうならば、見やすい事とは思われませんけれども、そう言う事が神様の心に叶うことならば、そういうお心に添いたいと一心発起をする、ね、そこから与えられるところの妙賀、喜びの妙が湧いてくる、この喜びの妙が湧いてくるようになりますと、精進せずにはおられない、もっと素晴らしい妙賀に触れたい、そういう信心の欲が出来てまいります。ね、いうなら、方時とも、いうならば、道がひとりでに開けないのですから、なにかそこに問題がある、難儀がある、難儀と思う何かがいつもある、けれどもそれが一つのご神愛であると言う事が分からせて頂いて、それに取り組んでいくにしたがって、ね、ひとりでに開けない、あの難儀な問題のおかげで道が開けるというおかげになって来る、ね。
地の心によって、いよいよ豊に力を受けていく、水の心によっていよいよ素直に、それこそ、器に従う心と、それこそ、限りなく下へ下へと流れていく、どういう障害があっても無理してむっこうも、乗り越えると言う事ではなくて迂回してからでも下へ流れていこうとする素直さ、そこに、いうならば、水圧的な力も得る事が出来て、スイッチ一つでおかげが頂かれる、真心一つでおかげの頂けれる道が開けて来る。
私は合楽の信心はこの地真水心、そして、教祖様が書いておられるひとりでには開けない、いわば、道は子ならずというその焦点が、ただ精進努力さえすればよいのではなくて、ね、合楽理念に基づく精進努力によって開けることになる、そういう決心から頂けれる妙賀、喜びの妙、これは神様に与えられる心、この喜びが、もうそれこそ、限りなく頂きたくなってくると、いよいよ信心の精進がきついけれども、それこそ、打ち取るは難しいけれども、されど妙賀かなという妙賀を頂く、いうなら楽しみをいよいよ育てて行かなければならない。
ここ二、三日お話しを頂いておりますが、伊万里の竹内先生のところから、先生から電話がかかってきて、ピースご飯が赤飯になった、そげなんことがあるだろうかと思うけれども、先生自身が電話をかけられるほどしであるし、ただもう不思議でたまらない、その話を私が大分のご大祭にお話させて頂いたら、それを聞いておった久留米の佐田さんが、実は私の方にもその朝ピースご飯が赤飯になっております。というて明くる朝の御祈念の時に小さいパックに入れて残っておるご飯を持ってきて見せて頂いた、まさしく赤飯である、そんな事があるだろうか、ところが、事実ある、結局どう言う事だろうかと私は思わせて頂くのに、ね、信心は、ね、赤飯を炊いて祝う喜ぶ心でせよと仰る、きついとか不平とか不足とかで信心するのじゃなくて、いつも自分の心が赤飯を炊いて祝い喜ぶような心で信心をせよと仰るが、これは神様が赤飯を炊いて祝うて下さったような感じがするとお話をした事でしたけれども、なら久留米の佐田家、それから伊万里の竹内家の一家を勢を揃えた、しかも、まあ、なんとも言えん、本当に合楽の手本とも思われるような信心を続けておられる、神様から赤飯炊いて祝うてもらえる一つ・・・。
(途中切れ)B面に続く
昨日、させて頂いた後に秋永先生のところの英治君が参ってきました。今朝からお夢を頂きましたと、( 録音が切れておる )頂いておるというお知らせであった。ね、これから秋永家一門、ねぎというのは、秋永一家の中に先生と呼ばれる人達がいくらもあると言う事、それでもまだ小豆だけである、これに、ままがともののうて、いうならば赤飯を炊く、丁度、三日間そういう御理解を続けて頂いておるうちに、ね、やっぱり、そういうような、まあ、そんな事があるだろうかというようなことがあると確信できるようになる、神様を信ずる力があられもないような事の中でも信ずる力がいただけてくるように、ここ二、三日それを皆さん聞いてくださってこの確信がでけてきなさったような感じがするんです、ね、神様に喜んで頂くというか、神様に祝てて頂くほどしの信心を頂きたい、そして、いっぺん竹内家、佐田家の信心の信心振りを、まあ、慣わせて頂きたい。
これも二、三日前の御理解でしたけれども、もう佐田さんのそういうような、なるほど、私共が見ても、まあ、有り難い信心だと思いますけれども、神様がごらんになると十里の道をまだ九里半しか登っとらん、だから油断すると下へ下がってしまうというふうにいただけ、佐田さんの信心を評して神様がそういうてくださるが、信心は限りがない、ね、今日頂きましたような信心がです、地真水心がです、私だけではなくて、いうならば、家族中が一門がその心になって信心させて頂くような心になる時に、これは今朝の御理解ですけれども、御理解三節をいつも頂きますが、御理解三節の心に添う信心とはそういう信心をいうのだとふうに今朝から頂いたんです、ね。
御理解三節の全般は、天地金乃神と申す事は、と言う事がまず分からなければならない、天地に対するお粗末御無礼、日柄と方位とか、ね、自分のものでもないものを自分のもののように思う思い方考え方の違いを改めて行かなければならない、これが全般である。後半は神様が家繁盛子孫繁盛、神も助かり氏子も立ち行くと言うことに目指させて頂くという信心が後半にあるんだという御理解でした。ね、そこに初めて神様から安心してもらえれる、喜んで頂けれる、それこそ、神様が赤飯を炊いて祝うて下さるというようなおかげにもならせて頂く信心を頂きたい思います。
どうぞ。